八風窯
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レポート
益子vs笠間
団地・信楽・五条坂(2000年夏)
大阪ドーム
信楽やけもの市(2002年夏)
ORIBEX2002 全国陶磁器フェア
土岐美濃焼まつり
長野県 駒ヶ根市『くらふてぃあ杜の市』
彦根『花しょうぶ通り』クラフト市
『木かげのくらふと市』

案内チラシレポート

 

団地・信楽・五条坂(2000年夏の報告)
  団地  7/18,19,20 京都山科の清水焼団地にて
   

京都の窯元はなかなかに保守的で
陶芸科を出た女の子を受け入れてくれません。

それでみんなで共同の工房を持って
作ったりしてるようです。

若い子達もいいもの作ってて

最終日のおわりは全品100円!とかやるから
オバサン殺到!

 

信楽  7/28,29,30 はじめて信楽やけもの市に参加。

駅のそばの野原で人が来るンかなあと思たけど
とぎれず、ほどよく人が来てくれて集客力に驚きました。

昼飯風景

犬山市でやってる川添さん。独学なのに質が高い。

 

伊賀でやってる女の子と、京都の炭山でやってる彼との
    カップル。茶髪ピアスの焼きモン屋はアタリマエです。

 

五条坂 8/7,8,9,10 

ことしは平日ばかり、2日もすごい夕立ちでした。



五条坂陶器祭は昼、暑くて暑くて・・・・

「MLで中根さんの発言を読ませてもらってます」と云う方も何方かおみえになり、と
てもテレました。

大雨の時と最終日午前中にゆっくり見てまわりましたが、新しい作り手の物などオモ
シロイ物、多数あり買ってきました。
これからウチの物と取り合わせて使ってみて、研究します。
現場でのお客さんからの示唆であと何を作って行くか勉強になりました。



八角皿は京都日吉の秀峰窯。どんぐりの小付けは美山町の
 御夫婦でやってる方。ちいさい飯椀はマルメロ工房の作、スエーデンで修行とか。
 パステル絵付けの六角皿は共同スペースで焼いてる芸大での女の子の品。 
 しぶい角皿・だ円皿・まめ皿は独学脱サラちっさい電気窯で焼いてる木津の人。
 分からんと作っててこんなに料理屋好みの器なんで驚く。スゴクいい。

ことしもいろいろおもしろい出合いがありましたが圧巻は
桂 米朝師匠が見に来てくださった事です。

 

 

 

 

30年ぶりやそうで南側歩道を端から見てはりました。
単なるミーハーな1ファンなんですが、毎年干支に因んで落語に取材したお皿を作っ
てお贈りしています。

ぼくの商売上の心得や接客の気持ちは、ぜんぶ落語から勉強させてもろたもんです。
ほんとに落語に登場する上方の商人(あきんど)は欲も徳もそなえた庶民そのもの。
船場の大店の旦那、番頭、丁稚、客・・・かれらが織りなす人間もようの中に、
道ばたで焼きモンを売って買おていただく、ぼくみたいな焼きモン屋が学ぶべき
気風や知恵、機知、徳、商人道がつまってます。

『波天奈(はてな)の茶碗』という大ネタがあり、京都一の道具商、茶金さんの所に
荷売りの油屋がもちこんだ安手の数茶碗は・・・という咄ですが、清水の音羽の滝の
前の茶店からはじまります。焼物の価値、値段ということについて要を突いたオモシ
ロい落語です。このほかに焼物をあつかった咄は『壷算』『祝いの壷』『道具屋丁稚』
『猫の茶碗』などがありどれもおもしろいです。


米朝師匠がうちの前にいらした時、ぼくは接客中でしたが
そのお客さんたちとのやり取りの中に落語『壷算』(瀬戸モン屋に瓶を買いに行く咄)
のくすぐりを入れて米朝師匠から笑いを取りました!!!

2000年五条坂の一番の思い出になりました。

さて『五条坂陶器祭クルーズ』にしゅっぱーつ!

 

 

 

南側歩道を東大路の方へ

エスニック雑貨も

それにしてもアツイッ!

女流の感性は新しいクラフトを生み出してます。

マルメロさんと共同出展者。

 

ラムネか冷し飴でも飲むか。

八風窯絵付け担当の真部さんは
去年の倍額を売った。

南側歩道のまん中へんは美濃・瀬戸の量産品をテキヤさんが売ったはります。

京都美山町で御夫婦でやってる方の磁器。
話したら訓練校の2年先輩。
17才の息子さんは来年訓練校を受けるそう。

備前からも

六兵衛窯でも売り立てが。
当代(8代)さんとは訓練校で同期です。

うちのロクロ担当の富金原クン。良く売れた!
演出がみごと!独立も近いか!(困るなぁ〜)

北白川のアパートで電気窯でやってる荒賀クンはグーグー。
物がすごく良くなってた。

ここで折り返し
五条通りを渡って北側歩道を川端へくだります。

 

 

ともかく暑い!

綾部の海老瀬さんも去年から返り咲き

陶器まつりはここの祭りやそうで、神輿も出ます。

やきものML常連武内真司さんのお店です。

北側は京焼、清水焼問屋さんの京物が多いです。







 
   
これでほぼ一周。いろんな食べ物や物販もあります。
気分をかえて夜の風景を

長野でやってる的浜さん、
いろんなクラフトフェアでも顔あわせます。

奈良の杉本さん団地ではお隣でした。

八風窯のとなりは丹波の市野雅利クン。うちで2年やっててくれました。

いやぁ、毎年つかれがひどくなりますね、もう14回です。エエ年やさかいに。
43ですわ、ぼくも。お客さんから「オジサン」と呼び掛けられるようになったんは
いつからやったかなぁ・・・それでも毎年がんばって出すのんは、こういう余禄が
あって「目の正月」さしてもらうからです。




 

また来年 会ぉなぁー ほんでもってボクこと翻弄してね。

 

 

 

 

 ことしの夏は京都・信楽と3ケ所の陶器まつりに出店することに
 なりました。暑い時期、来ていただく方にはほんとに感謝です。
 『陶器祭によせて』という文章を書きました。
 はじめてのオナミダ頂戴モノ、読んでほしくもあり、はずかしくもあり・・


 『陶器祭によせて』

  熱き陽を かぶりて十年(ととせ) 陶(すえ)の市 

毎年8/7・8・9.10の4日間 京都の五条坂は陶器まつりでにぎわいます。
東大路から鴨川までの国道1号線ぞい、北の歩道も南の歩道も両側にやきものを
売る店、包丁を売る店、たこたき、ラムネの夜店が立ちならんで・・・
1年でこの日だけ国道で分断された五条坂の北と南をひとびとが行き交います。

 ぼくも小学校3年頃親につれられて行って退屈で退屈で・・・
 ノベルティのちっちゃいアヒルとか犬とか動物のミニチュア買おてもおたなぁ・・
 すぐ足おれてもうたけど。

もともとは六波羅密寺(珍皇寺)さんの御盆行事『お迎え鐘』を突きに来やはる
参拝客をあてこんで、どこぞの窯元がみかん箱に傷モン並べて売り出したら
エライ当ったそうで今や70年ぐらいつづく京の夏の風物詩に。
600ぐらいの出店とか。

心得ごとなんですが
北側は京焼窯元や問屋、五条坂に店張ってる陶器店などいわゆる清水、京焼です。
南側中央は有田・美濃・瀬戸の機械もんをあつかうテキヤさん
南側の東端と西端にぼくらみたいな個人作家が多いです。
もともとは店が少ないと人の流れが悪いンで
京都で修行して独立した若手でもにぎやかしに入れとけっちゅーことです。
 
今年出したら14回連続、87年から出してるわけで・・・

京都で6年、そのあと2年の窯ぐれ修行。益子から帰って滋賀県蒲生町で独立。
86年春に初個展。これが針のムシロ。思うことの半分もできてないのにたくさんの
方に見ていただき、値をつけ、買っていただくことに・・・あまりの恥ずかしさに
その後の8ケ月は親すねかじりして引きこもり、昼夜逆転、何をつくってエエか分か
らんようになってしもて何もせず、酒呑んでTV見てくらしてました。

夕焼けニャンニャンを見るのが唯一の愉しみでした。逃避してたんです。
蒲生町の仕事場は京都の友人たちが建ててくれた10畳の小屋。
ここへも何ケ月も入れませんでした。
カミさんはまだ益子の先生のところで修行を続けており、
ひとり暮らしだったんです。たまにかけるカミさんへの電話では頑張ってる
ような話しをしてましたが。だんだん人と話をすることもできなくなり・・・

でもその年の暮れ頃、あることをきっかけにストンとトンネルの外に脱出できました。
「ぼくの作ったモンを誰かが使こてヨロコンでくれはるんやったら
 他に何を望むことがあるんや、それでエエやん」

茶陶の作家、造形の作家、前衛の作家、美術工芸品の作家・・・
どこに足場を張るのか踏み迷いましたが、思いは定まりました。

   日常の用に供する器をつくる工芸の芸人
   ぼくなりの『芸』がもりこまれた器を・・

元気になって日常食器を作り、京都のお店に持ち込んでかぼそいながらも
作っては見てもらい、少しずつお納めできるようになりました。

87年の6月にカミさん里美の年季が明けていっしょに暮らすようになりました。
そしてたまりにたまった二番手の品を持って清水焼団地と五条坂の陶器祭にふたりで
店出ししました。


 
清水焼団地は梅雨まだ明けやらず、五条坂は暑い夏。
はじめての出店でいろんなことを学ばせてもらいました。

  五条坂で学んだことのいくつか

◇きれいな女の人をいっぱい見られて楽しい!(やりすぎるとカミさんが・・・)
 通るお客さんの目を見つめたり見知らぬ人なのに話しかけていい。新鮮!
 こんなにやきものを愛してる人がいてくれる!
 暑い中すごいエネルギーを使って「良くて安いやきもの」を探そうと
 何万人も五条坂に集まってくる!
 そしてぼくの作った物を好んでくださる!

  ほんとうに勇気づけられました。
 「道ばたで物を売る」というはじめての経験もぼくには合ってました。
  2つの出来事がすごく心にのこっています・・・


◎ぼくらのような個人作家は焼物屋仲間のつてを頼って五条陶栄会(陶器まつり運営
 母体)に出店申し込みのはがきを出してOKをもらい、出店料(3万円ほど)を振り
 込み、前日の6日にテントを張りに五条坂に行きます。
 場所は記号がふってあって各出店者の名前がチョークで歩道に書いてあります。
 その年、ぼくのまわりはみんな初出店の人ばかり、白ペンキで表示のあるそれぞれ
 の持ち分はけっこう狭い。横にひろがると隣に悪いんで、ついつい前へひろげてし
 まうんです。すると歩道の両側に店あるんやから通れるトコが狭くなる。
 でもまあ通れるしその場のみんなでこんなもんでショーとか言って帰りました。
 つぎの日の初日7日の朝8時に来てみると・・・

 南側歩道まん中へん五条郵便局のあたりは有田・瀬戸・美濃の機械もんを売ったは
 る業者さん、テキヤさんです。うどんの鉢1ダース積み上げて「千円っ!」とかの
 啖呵バイもあります。
 南側歩道は陶栄会ではなくテキヤさんが仕切ったはるんやけど、
 その中の世話人さん(五十がらみの日に焼けたオッチャン)が

「たったいますぐ、この辺りの全員、道路の表示まで店を縮小せよ」と

 静かに、だけど重みのある申し渡しをしゃはりました。でもテント自体大きいのを
 張ってる人もいるし、昨日半日かけて焼物きれいに並べ終わってるし、みんな相当
 の量を展示してて、お客さんもそろそろ来はじめてるし、これいまからやり直すと
 なるとまた半日仕事・・・出してる人間の一人がちょっと気色ばんで抗議しました、

「はじめてで分からなかったけど、通行に支障はないし、今回はこのまま出さしてほ
 しい。事前の十分な説明がなかったンやから・・・」

 テキヤさんは東濃弁でこう言わはりました。

「あんたたち作家さんは葉書1枚を出すだけやが、ワシらテキヤはどこの祭に出すに
 してもかならず寄りをして『地割り』というコトをする」
「テキヤどうしの店店がちゃんとどことも商売がなりたつように、休むモンがいると
 きは人の流れを考えて配置を変えたり・・・」
「かならず集まって時間を使こーて地面を割る。そーやって『地べた』をもらう」

「あんたたちは芸術家かシランが葉書1枚で前の日ここへ来てにテント張って、
 三人が楽にすれ違えると言われるが、夕立ちが来て何十人もが京阪にむこうて一斉
 に駆け出しても通られようか。車椅子の人も通られようが、足の弱いモンも。」
「事故が起こったらあんたたちが困るンやのーて、この陶器祭に店出ししてるモン
 みなが困られる、ケーサツの許可が取り消されたら来年の陶器祭はのうなる」

 ぼくら全員3時間かけてやりなおしました。
 『地べたもらう』・・・しびれましたね。
 あのおやっさんのサカヅキ貰おーかと思いましたね。

◎もうひとつ。
 カミさんに店番まかして、ほかの人のもん見てまわるのンも楽しい勉強。
 郵便局前であのおやッさんにあいさつして東大路のほうへあがって行くと
 いちばん東よりの歩道橋の下にオジイが小体な店出しの準備中。
 50cm四方の机と椅子、テントなし、これがこのオジイの出店のすべて。
 そしてオジイは今しも販売する商品をならべるために自分の店の前に
 かがみこんでて何を売ろーとしてるのかワカラン。
 近づいてのぞきこんで見ると・・・

 カエル。 1cmにも満たないカエルのやきもの。
 財布に入れとくとお金がカエルというまじないのカエル。
 これも陶器まつりで売り買いされるやきもの。
 
 そのオジイは2〜300はあるちっちゃい、ちっちゃいカエルを一生懸命に
 お客さんの目線にあわせて正面にむけて1個づつ、1個づつ並べてました。
 几帳面に少しカーブをつけて。後ろに立ってるぼくにも気づかんと一心不乱に。
 地面にはオジイとぼくの影がすごく濃くあって、ときおりオジイは汗をぬぐいます。
 品もンを汚さぬように・・・胸を突かれました。

 ほんとにいろんなベンキョウをさせてもらい、商売をさせてもらい、
 取り引きを申し出てくださるいくつものお店の方と出会わせてもらいました。
 独立して2年。地道に焼物をつくって頑張っていけばやっていけると
 初めて思ったのがこの時の五条坂です。87年夏。

 4ケ月後の12月9日に左目の視力を失いました。交通事故。
 カミさんに運転をかわってもらってシートベルトをするのん忘れました。
 してたカミさんは無傷。道路左端に駐車中の乗用車にノーブレーキで激突。
 事故直後いちばん最初に思ったこと。
「あーこれで当分寝てられるぅ」(書いててナサケナイ)
 左眼裂傷。すぐ分かりました。左はダメだと。
 右はセーフ。「きっとダイジョーブ」そうも思いましたが・・・

 29日間で退院、正月明けから仕事再開。でも・・・
 カミさんには仕事するフリして仕事場で文庫本読んでました。

 使いもンにならない大きさの湯のみをまる1日挽いてて気づいた時の気持ち・・・
 見ようとして見えへんねんけど前とおんなしに仕事しようとして
 できひん時の気持ち・・・
 スグには出来んでもやってるうちにかならず出来るようになるはず、
 という強がり・・・
 その訓練をやった先で出来ないということを確認せんなんかもという恐れ・・・
 そして生まれついての怠惰な性格、
「こんだけの目にあったんやからもうちょっと遊んでてもエエやろ」・・・
 その全部がないまぜになって仕事してるフリしてました。

 でもカミさんは2階で機を織りながら見えてたんですね、ぼくが仕事してないの。
 それである日ぼくにむかって涙ながらに感情をぶつけました。

「いろんなことの不安や怒り、あんたの気持ちを私にぶつけてくれないことが
 なによりツライ!」

 これでふっきれました、うちのカミさんはすごい人です。
 その日から顔の左を覆ってるガーゼをはずしました。
 もう必要はなくなってたけど外せなかったンで・・・
 なんていうかそん時の顔はいっしょに食事する人のごはんがマズくなる顔で・・・
 自分でも見とーなかったしカミさんにも見られたなかったし・・・

 そうしてる頃に仕事の電話がいくつかはいりました。
 前年の夏、五条坂でぼくの物を買ってくださった人たちから。
 むこうも事故のことは知らはりません、こっちも話しません。

「もうじき永年つとめた保母をやめる、ついては世話になった同僚にその人の
 誕生月にあわせた花の図柄と名前を入れて贈りたいけど・・ひとつ600円で
 20個ほどやってもらえんやろか」
 
 日を限られた仕事。こんな注文がその時期に4件ほども・・・
 五条坂で知り合った方たちがぼくに仕事をさせてくれはりました。
 それが訓練になり、訓練すればなんとかなり・・・
 そのときの花の図案のいくつかは、お店の方でもやってもらおうということに
 なり、定番に育ち・・・

 こんなふうに五条坂の陶器祭で出会った人たちに助けられて
 ぼくは仕事をつづけてこられたんです。
 だから命のあるかぎり五条坂陶器まつりには出します。
 人間国宝になっても(笑:それはない)、五条坂の道ばたで
 自分の良いと思う焼きもんならべて買おていただきます。
 
 あれから出し続けて今年で14回目。
 毎年、毎年うれしい出合いがあります。
 30才の夏から比べるとさすがに最近はえろうなってきました。
 でも今年も、京都のあついあつい陽に焼かれに行きます。
 そして天の底のぬけたみたいな夕立ちを浴び、
 そのあとの夕焼け空を愉しみに行きます。

                      2000年 7月10日   中根 啓

 



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