| ぼくの父は 山登りが好きやった  
 左の前 父とぼく ぼく3年?4年? 京都の東寺の変電所にいたころはよく会社の山の会のハイキングにいっしょにいったなぁ
 山科の牛尾山から石山寺へ抜けるコース 秋山下りて もうすぐ石山寺ちゅーとき
 刈り取りの終わった田 ワラが積んであって
 イチビりのぼく その田んぼ 走ってまわった
 一面のワラ となりの田に飛んだら・・・
 野壷に 胸まで どっぷり↑
 せめてものすくい もっと深かったら・・・
 ごめんなー 会社の同僚の前で
 ハジかかせてしもて・・・
 最後の登ったんは息吹山独立直後 ノイローゼぎみやったぼくを
 表に引き出してやらなあかんと 思ってのことかなぁ・・・
 
   20年前62で くも膜下出血で死んだ おとーちゃん
 関西電力の現場の所長やった おとーちゃん
 酒もタバコもやらへんかった おとーちゃん
 大正14年生まれ 一番わりくった世代の おとーちゃん小学校3年のときに おとーちゃんが死んだ おとーちゃん
 工作が上手やったんで 工業高校へ行った おとーちゃん
 昭和20年ちょっとだけ戦争に行った おとーちゃん
 32才でぼくが生まれておとーちゃんになった おとーちゃん
 家族が宇治の小倉に定住してからも単身赴任で福知山と膳所に行ってた おとーちゃん
 山岳部に入るてゆーたら
 ぜったいアカン と電話を切った おとーちゃん
 関西の低い山ばっかり登って
 アルプスへは行ったことのない おとーちゃん
 
   おとーちゃんが死んで 2年して生まれたムスコのレンと
 今日から ゼータクな山登りに行きます
 おとーちゃん チカラをください おとーちゃん 滑落して落ちんよーに
 山運:やまうんをください
 
   関電の現場の所長=都市労働者やった おとーちゃんサラリーマンがこどもに残せるのは教育だけや
 とゆーてた おとーちゃん
 高校進学 普通科やのーて 美術科はあかんか
 と聞いたら あかん それやと職人になって
 大学出のディレクターの下で使われる とゆーた
 おとーちゃん
 見えざる手 に導かれて ぼくは やきもん屋 になった
 ぼくの代で 家業のある家 になった
 蒲生の仕事場 いっしょに作ってくれた おとーちゃん独立直後のぼくのノイローゼ それから立ち直って
 ちょっとは元気になって カミさんも織の修行の年季明け
 いっしょになって はじめて清水焼団地と五条坂の陶器祭りに
 店 出して あのとき よろこんでくれてた おとーちゃん
 それから3ヶ月ほどで 突然 逝った おとーちゃん
 あと1年長生きしてくれたら ちょっとは安心させられたのにあと2年長生きしてくれたら レンのこと抱けたのに・・・
 そのレン もう18歳ぼくは サラリーマンの息子
 18歳 1975年 一浪して美術の短大
 ほんで 京焼の窯元で絵付師に 1978年春
 8年して独立 1985年の冬 それから22年
 あっ とゆー間やった
 レンは やきもん屋 の息子家業のある家の長男
 やってもらいたい
 これがホンネ
 
 ぬるく生きてこれた ぼくの時代 よりきびしい時代になる
 早く選びとったほーがイイ 早く手を動かしたほーがイイ
 覚えんなんことさまざまに さいしょの10年は修行期間
 この10年 自分を殺してほしい
 さまざまをゆっくり身につけたら
 そこから自分の花 咲かせられる
  人間関係と経済 これが精神の重荷
 やきもん は個人技でやれる
 人間関係から ある程度のがれられる
 経済 なんとかなるはず 一定の実績
 過分な欲望 を押さえ込めれば 安寧と平安
 ぼくが がんばれるのは これから10年かなぁ それで60になる おとーちゃんが死んだ齢まで 12年
 レン いっしょにやってくれへんか
 おとーちゃん チカラをくださいおとーちゃん レンに聞き取る力 をください
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 まー そーなったらなったで 苦労ふえるしまー そーならへんかったら ならへんかったで
 次男も3男もいる
 いることはいる けど 時間配分がねー タイミングがねー
 モデルとしては 沖縄の壷屋のある工房で聞いた言葉
 長男も次男も3男もやちむん屋ですこの仕事 最後は家族でしょー?
 つまりは 家として生きる  ーーーーーーーーーーーーーーーー  ムスコと奥穂高へ 5   |